兵庫県神戸市 高野山真言宗 準別格本山 遍照山 聖徳院の歴史

御祈願・御供養・お問い合わせ Tel.078-221-5244

聖徳院の歴史

  1. ホーム
  2. 聖徳院の歴史

聖徳院の歴史

聖徳院のその昔

縁起開基創建は確かではありませんが、聖徳院と名乗る寺が昔、大和国高市郡久米村霊禅山にありましたが、堂宇が破壊され放置されたままになっていたので、寺僧等協議の上、本尊弘法大師、脇仏不動明王を高野山南谷にあった大乗院に安置しました。

その後、藤原姓を名乗る俊恭法印なる人が、幼少の頃、醍醐山に入り剃髪受戒して学問修行に励み、慶長18年(1613年)高野山の閑静なるを慕って、高野山にて聖徳院を再営された中興の祖とされています。

明治時代には信仰の形として、「弘法大師」「不動明王」「観音菩薩」「地蔵菩薩」を本尊として仰ぐ講社が各地にあり、積極的に各寺院の信仰的、経済的の両側面を支えていました。

聖徳院の前身で信仰的支柱となったのは明治初期の大信講という講社で、大信講は特に熱心で神戸中心部に講員が散在し、その本部が裏滝道(加納町)にありました。この講の役員たちが何とかして寺格を得ようと高野山に働きかけ、その努力の結果、高野山大乗院の塔中であった聖徳院を神戸で復興させるというかたちで、昔久米村にあった聖徳院(本尊弘法大師、脇仏不動明王)を講本部のあった裏滝道(戦前の位置)に明治23年春、高野山大乗院の諦仁阿闍梨によって「北は緑生い茂る山を背に南は碧海を臨み種々の船や人々が日に日に数を増し、誠に刻々と姿を新たにしてゆく土地」として、南山の一院を移し院宇を建て、聖徳院と名付け世を救済するための道場と布教の拠点にしようとされました。

しかし、数年も経たない中に先師(先師名は不詳)は逝去され、堂宇は完成されないままの状態で数代を経ました。

明治35年頃の第4世住職は、田和諦観僧正で後に東京八王子金剛院の第20世住職に転出されました。 明治43年3月1日付で、高野山大乗院住職松橋慈照僧正が聖徳院第5世住職を兼務するところとなり、僧正は常にこの院を興隆し先師の大願を成就しようと思われ、いささかなりとも仏恩の一分に報いようと機の熟するのを待っておられました。

大正のはじめ漸くにしてその機十分に熟し、檀家と企画して日夜たゆまず事業の実現へ取り組まれていましたが、志なかばで松橋僧正は大正4年9月2日付で高野山大学の職務に抜擢され、赴任されることとなりました。

松橋僧正の後任に高野山光臺院より、岡田實範僧正が大正4年9月2日付にて第6世住職として着任されました。 僧正は志を受け継いで院を経営され三年間の辛苦の末、初めて寺門を完成されました。 建築工事は大正6年2月に起工し、同7年12月に完成し大正8年春、高野山管長密門大僧正に恭しく委嘱し落慶供養の大法要を挙行いたしました。

旧聖徳院

所在地
神戸市神戸加納町4-2
名称
古義真言宗 高野山大乗院末 聖徳院
ご本尊
弘法大師
脇仏
不動明王
境内の広さ
約300坪
本堂
桁行7間・梁行7間半
庫裡
桁行6間・梁行5間半(二階建)
表門
高さ9尺5寸・柱門8尺
井戸屋形
桁行1間・梁行2間
土塀
2方面

近世の推移

岡田實範僧正の努力によって完成し、輪奐はこの上なく立派なものでした。やがて岡田僧正は昭和11年9月20日付で光臺院に転出されました。 先徳の中でも松橋慈照僧正は、学徳共に秀れ、高野山第432世法印職を務めると共に、断食行や八千護摩を修法された律僧であり、岡田實範僧正もまた高野山光臺院住職として、第435世法印に就かれました。 岡田僧正の後、第7世住職に就任された副住職藤田亮智僧正は、支那事変勃発後、真言宗事変事務局神戸支局を当院に設置され、神戸支局長となられました。

この頃には兵庫における布教の拠点として世間に認められる存在となり、昭和16年3月28日付をもって準別格本山に昇格しました。しかし、無念にも太平洋戦争の神戸大空襲により昭和20年6月5日、聖徳院本堂、山門、庫裡などすべて焼失し、住職夫妻も被災し亡くなられるという不幸に見舞われ、住職不在の空白の時代が数年間ありました。

岡田實範大僧正

第6世 岡田實範大僧正

藤田亮智中僧正

第7世 藤田亮智中僧正

聖徳院の再建・復興

藤田亮智僧正の長男亮禅僧正は、次男照清氏と海軍より復員後、共に寺再建を願いまずは土地探し、次に戦災で離散された檀信徒の安否消息、所在確認からという全く無からの出発でありましたが、昭和24年3月4日付で第8世住職に就任され、現在の宮本通にご本尊と脇仏のみを祀る祭壇と住居を兼ねた25坪程度の質素な寺院を建て、再出発の意を固められました。

寺門の復興はまず本堂建立からと考え、10年間全精力を傾けられてついに昭和34年5月31日、大原智乗大僧正を導師にお迎えし落慶法要を挙行、まさに空襲で焼失してより丸14年目にして悲願の再興でした。 現本堂は当時としては他に類をみない新しいセンスの寺院として評判の建物でした。

さらに昭和38年より本堂内陣の拡張工事を計画し昭和40年10月24日、高野山宗務総長高峰秀海大僧正ご導師のもと落慶法要が厳修されました。

本堂落慶法要

本堂落慶法要(昭和34年5月31日)

現在の聖徳院

所在地
神戸市葺合区宮本通6-7-15(後日、中央区と改称)
名称
高野山真言宗 準別格本山 遍照山 聖徳院
ご本尊
弘法大師
脇仏
不動明王・愛染明王
境内の広さ
約853㎡
本堂
165.3㎡
庫裡
231.4㎡
表門
3.7m(高さ)、5.6m(幅)

先代藤田亮禅僧正は徳を温厚に湛え、雍和の態は自ら剛強の心を挫かしめて、昭和58年より4年間、高野山真言宗宗会議長の要職に就任され、宗団の与望を担われることとなりました。 特に昭和59年のお大師さまご入定1,150年御遠忌大法会には、当局と共にその重責を無事完遂されました。

さらに、昭和61年にはヨハネ・パウロ二世ローマ教皇の呼びかけで、イタリアの聖地アッシジにて開催された第1回世界宗教サミットに、高野山真言宗管長代理として、全真言宗を代表して世界平和を祈る集いにダライ・ラマ猊下らと共に参列なされました。

宗会議長就任中は宗門の発展に大いに活躍され、その後耆宿を拝命されましたが、奇しくも聖徳院が神戸の地に建立されて百年を迎えた平成元年、63歳にして遷化なさいました。

思いもよらぬ先代の遷化により、亮禅僧正の長男量典僧正は32歳の若さで平成元年9月5日、第9世住職として当山の法燈を継承されました。 平成7年には阪神・淡路大震災に見舞われ一部損壊したものの、鉄筋コンクリート造りが奏功したのか辛くも難を逃れました。

量典僧正は先代の意思を引継ぎ、更に檀信徒の教化に力を注ぐべく「寺報」の発行や「護寺会」発足など、寺と檀信徒相互の結びつきを目指し、物心両面での一層の充実を図るために現在活躍中です。

バチカン宮殿にて

バチカン宮殿にて(昭和61年10月29日)

ご供養・ご祈祷
聖徳院寺報
ギャラリー
高野山真言宗 総本山金剛峯寺

〒651-0063
兵庫県神戸市中央区宮本通6-7-15
地図

TEL: 078-221-5244 
FAX: 078-241-8027

ご供養・ご祈祷・葬儀・法要など 各種お問い合わせ Tel.078-221-5244
このページのトップへ